廃電池の底の細流や春深し 中国浙江省 夏凱
作者:石仓鮟鱇
葛飾吟社の機関誌『梨雲』に寄稿のあった中国の詩人夏凱さんとメールのやりとりをしている。
夏凱さん、中国の古典定型詩である詩詞を書き、現代詩を書き、英語の詩を中国語に翻訳し日本の俳句を漢俳に翻訳し、日本語で俳句を詠み、その俳句を漢俳に翻訳している。
今年28歳、これだけ多分野の詩に挑むことのできる青年は日本にはいそうもない。
メールのやりとりは、今は夏凱さんの日本語の俳句について。
詩詞については、
夏凱さん> 鮟鱇先生的詩詞,非常好,用日語言之,鮟鱇先生的作品“素晴らしい”。
という言葉を贈られて気をよくしてはいるが、私は夏凱さんの詩詞をまだ十分に味読できていない。
ただ、一地清愁さんの詞を詠んで以来の大きな衝撃は受けていて、私の詞が、ある理由でニセモノであるのに対し、彼の詞は、ホンモノ。ということには気付いている。
私の詞は、日本人であるのによくやっている、ということも含めて、中国の詩人からは高く評価されているが、ある理由でニセモノ。そう感じている。
ただ、今はそれを明確な言葉にできない。
さて、夏凱さん作の日本語の俳句についてのやりとりは、彼から送られてきた150首の各句について、私が日本語でコメントをし、彼からは中国語で返事をもらう、という形で進めている。
私は、中国語は読んで理解はできるが、書くことは難しい。
夏凱さんも日本語は読んで理解はできるが、書くことは難しい。
夏凱さんの俳句、さっと見ただけでも次のような佳句があった。
珊瑚と去年今年 赤い涙
さんごとこぞことしあかいなみだ 四五六
真珠一千万斗や春の雨
しんじゅいっせんまんとやはるのあめ 三五七
廃電池の底の細流や春深し
はいでんちのそこのせいりゅうやはるふかし 九五五あるいは六八五
尺八や一寸の竜が鳴く
しゃくはちやいっすんのりゅうがなく 五四五
秋の夜の銀漢一筋は太刀か
あきのよのぎんかんひとすじはたちか 五八三
夏凱さん>日俳の優勢:切字。季語。十七音,節奏。
日本の俳句のよいところは季語と十七音だと言っているのに、五七五の句は実はあまりない。
夏凱さん>定型,自由律,现代日本俳句の双峰。皆有成就,可以效仿。大千世界,海纳百川。
ともいっているので、五七五がなくても、なるほどと思う。
ところで、夏凱さんの俳句には、日本語になっていない句も少なくない。
千里の駒が馬蹄う幻れ氷
目の縁の明き愁う古硯
これらの句は何を言っているのかがわからない。
千里の駒、馬の蹄、幻、氷
目の縁、明るい愁い、古い硯
これらの言葉には俳句的詩想が窺えるが、日本語にはなっていない。
夏凱さん>私の日語,錯誤多。専門家に笑われる。
しかし、私には、日本語にはなっていないことがむしろ興味深い。
日本語にはなっていないのに、俳句的詩想が窺えるからだ。
もしかすると、俳句には、文法的決まりごとを超えて伝えることのできる機構があるのではないか、そう思う。
千里の駒が馬蹄う幻れ氷 という言葉を俳句だと思うことで、私の想像力が働き、作者の句意を探ろうとする。
そのためには、読み解く努力を補償するものとして作者への信頼が必要であり、その信頼によって、その句には、味読するに値する何かがある、という直観が働くのでなければならない。
その直観を呼び起こす言葉の機構、それが俳句なのではないだろうか。
俳句が世界にひろまったのも、その直観を呼び起こす機構が俳句にはあるから、ではないのか。
ということで、私は、夏凱さんの150句を読むことにした。
俳句を読むということは、わたしにとって日本語になっていない句については、わたしの日本語に翻訳するということ。
1 千里の駒が馬蹄う幻れ氷 → 氷上に蹄の幻騏驥馳せり
ひょうじょうにひづめのまぼろしききはせり 五七五
2 目の縁の明き愁う古硯 → 目の縁に明るき愁ひ古硯
めのふちにあかるきうれいふるすずり 五七五
めのふちにあかるきうれいふるいすずり 五七六
この二案、わたしは、五七六の方がi音がよくひびき、よいと思うが、どうだろう。
この句から私は、秋の清らかなひざしの中で朝露をおびて光っている古いすずりを思い浮かべた。
古いすずりは、誰かが棄てたもので、目の縁に、それがちらっと眼に入った、ということ。
無論、この解釈は私の勝手な解釈。
俳句は、読者それぞれの勝手な解釈によって、詩として完成するのだと思う。 |