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标题:
回复世界俳句协会理事石仓鮟鱇先生的信
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作者:
万宽
时间:
2016-2-5 00:02
标题:
回复世界俳句协会理事石仓鮟鱇先生的信
石倉先生:
貴安。
日本俳句,三要素:季語,切字,十七音。
季語:各國皆有,不獨日本之季語。然日本季語,乃是日本歷代俳人之總結,故而在這些季語中,有著語言的歷史傳承。可謂:“有歷史的季語”。
十七音:日語之節奏,和漢詩之平仄,皆是他國所未有的。譬如英語,是沒有平上去入之分的,日語亦無。而中文的十七字,則是分平仄,而無節奏,即使有節奏亦無日語的錯綜複雜,那種散漫的調子是日語所特有的。漢詩,則是以對稱的字數,和平仄相对組成音調形式的。
切字:有著不同的語調變化,雖然是模糊的,但是確實是存在的。不同的切字變化,會給俳句帶來不同的意境,因為情感是詩歌表達中很重要的一部分,而俳句恰是運用切字,來展現多种語氣變化的。因為切字,使得俳句成為有著獨特情感的短詩。而這在漢詩中,是很少出現的,在楚辭中以“兮”,來代替,或者在詩經中,以“曷”“維”等代替,在宋詞中以“爭”,“恁”等代替。在英文詩歌中以“Oh”等代替。所以,切字,给俳句保留了情感,而这种情感是在通过切字来直接展现的,当然,间接的展现则是通过意境。
俳句的本质是依托“季语”,“切字”,“十七音”,而来完美展现的,就像汉诗中的近体诗是通过“平仄”的对仗关系,和“押韵”,来作为载体的。如果失却这些载体,就无法完美得来展现汉诗,独特的韵律感,和对称美来。
当然,俳句的本质是什么,我想俳句的本质应该是建立在上述载体之上,来表达的特殊情味。就是俳句本身,以一种简洁的形式,来表达俳人对世界的体验。但是俳句一旦失去这种载体,就会成为一种共有的诗,也就失去了俳句作为俳句的形式意义了。
所以,俳句的本质应该是:定型(形式或者说载体)+俳意(内容)=俳句的本质。定型:使得俳句有了形式的意义,而这种形式,有着各自的意义。季语:有着意象的意义。切字:有着情感的意义。十七音:有着音律的意义。俳意:则是借助这种载体(形式),来表达俳人所具有的意象上的意义,或者说是不同季节的意象,所给人带来的明显的时间的变化,那种细微的变动,无疑是季语的生动注脚。因为有了季语,那种时间的流逝感,生命的变动感,才得以那么细腻的展现。
我想,这就是俳句,深处的魅力,或者说,俳句的本质吧。
至于翻译,则是从俳句中,寻找到另一种异国的诗,这本身已经流失了俳句的美感。当然,另一种诗,有一种是趋向把坏的俳句变好,但大多是时候是把好的俳句变坏,或者,变化了俳人原有的意境了。当然,聊甚于无,会使得异国的人,对于俳句有一定层面的理解,这就像开辟了另外一条通往俳句深处的路。
当然,世界最短的诗就是俳句,此乃日本诗人之伟大创造,而这种吉光片羽,羚羊挂角,或者说是一鳞半爪,或者说是管中窥豹,正是俳句带给人的莫大享受。
神州 夏隆光
拝復
貴信拝読。
俳句については、
季語
五七五
切れ字
が、よく説かれていますが、
それらは、翻訳すればみな消えてしまうもので、そのようなものが俳句の本質であるとは、小生には思えません。
俳句とは何か、を考えるうえで、もっとも重要なことは、俳句が世界に広まっている、ということです。
俳句はなぜ世界に広まったのか、それを抜きにして日本の俳句の形骸をいくら論じてみても、俳句の魅力、本質をつかむことにはならないと思います。
わたしは、季語、五七五、切れ字、のどれも俳句の本質とは関係がないと思います。
1 季語は世界共通ではない。
世界の俳人は、日本の俳句に季語があるから。俳句に魅力を見いだしているわけではない
2 俳句を日本語で学ぶ俳人は、日本以外にはほとんどいない。
世界の俳人にとって、日本語は、俳句の重要な構成要素ではない。
日本語にとってさえ、とりわけ優れた節奏ではない五七五は、世界の俳句の絶対的なルールにはなりえない。
江戸俳諧には五七五ではない名句多数。
字あまりや句またがりにあれこれ理屈を付けて五七五を守ろうとする俳人は、滑稽です。
3 切れ字は日本人にとってもむずかしいものです。
切れ字によって句がそこで切れ、切れることによってどういう効果があるかがわかる、ということは、とても特殊なことです。
古池に蛙飛びこむ水の音
古池や蛙飛びこむ水の音
この「に」と「や」の違いは、俳人にしかわからない差です。
それがわからないからといって、日本語がわからない、ということにはなりません。
日本人だからといって、それを理解できなければならないというものではなく、つまりは、俳句語であって、標準的な日本語ではありません。
よほど懇切丁寧に説明しなければ、日本人でも理解がむずかしい、とても偏頗な日本語であって、俳人世界の共同幻想、方言です。
繰り返しますが、季語も、五七五も、切れ字も、翻訳してしまえば消えてしまうものです。
しかし、俳句には、翻訳しても消えないものがあって、それがあるから、世界の多くの俳人が、日本語ではなく、自国の言語で俳句を詠んでいるのだと思います。
どのような言語で詠んでもよい短い詩、それが俳句なのであって、
俳句的詩想は、短くても詩である、ということを可能にするものです。
俳句とは何か、トトロジーになりますが、俳句とは俳句的詩想を追求する短詩、だと小生は思います。
以上、思いつくままの乱文、ご容赦ください。
では
石倉秀樹拝
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